ハーブの歴史

第1回 【人と香りとの出逢い】
匂いの中で、美意識などを感じるものを「香り」と言いますが、この「香り」を人が意識し始めた時期は分りません。
ただ、人は、火を手に入れることにより、香りと出逢った・・・と考えられています。
香を表す英語の「Perfume」は、「Per(throught)+fume(煙)」という成り立ちをしています。
その事から、良い香りに出逢った最初の方法が、火に関連することであったと考えられているのです。
火の発見からしばらくの間、火を神秘的なもので、空に昇っていく煙と匂いは、自分たちの祈りを天に届ける役割を持っていると、人は考えていました。
その後、神々の怒りなどを静めるために、食物やいけにえと一緒に香煙を捧げるなど、火と香りは結びついているもので、また、神秘的なものだとされていました。
しかし、時が進んでいくと、香りを作るためには火は使わなくても良いこと、香りは水や油に移して体にすりこむなど、神だけのものではなく、自分たちも使えるということを知ったのです。
自分たちも使えると知った最初のうちは、神聖だとされていた王や神官の体に香が塗られていましたが、しだいに、彼らの臣下や子供に、そして身分に関わらず香料が広まり、日常生活でも使われるようになっていきました。
このようにして広まった香りは、日常生活、宗教的なシーン、歴史の中での色々なシーンなどに登場するようになりました。
第2回 【古代エジプトにおける香り】
最初に多くの香料を使うようになったのは、古代エジプトです。
宗教的儀式、日常生活、ミイラの3つにおいて、色々な香料が用いられました。
シナモン、ナツメグ、アーモンド、乳香、ミルラ(没薬)、ローレル、ジュニパー、ムスク、シダーウッド、オレガノ、カンショウ、コリアンダー、ショウブなど・・・
今日でも広く知られているものが香料として使われていました。

<宗教的なシーンでの香り>
イシス、オリシスなどの神殿では薫香がたかれ、祭りのときは道端でもたかれました。

<日常生活での香り>
日常生活では、様々なシーンで使われていました。
・ 神殿と同じように、個人の家でも香がたかれ、部屋の中をその香りで満たしていました。
・フランキンセンス、ミルラ、ミント、ユリなどを入れ、若返りのローションを作っていました。
・ 女性がユリを集め、男性が布袋にユリを入れしぼって精油を採っていました。
・ 油脂に花を混ぜてボール形かコーン形にした軟膏を、宴会で招かれた客の頭に奴隷が乗せ、客は、ゆっくりと溶けていった軟膏で、頭と体を包みました。
 宴会を開く家では、食卓や床にたくさんの花をまいていました。
・ピラミッド造りの際には、働いた奴隷に対して、オニオンやガーリックが配られたりもしました。
・古代エジプトにおけるビールにはフェンネルやサフランが香り付けとして使われていました。
このように、色々なシーンで使われていたため、日常生活で使われた量の方が、宗教的なシーンで使われていた量よりも、ずっと多かったと言われています。

<ミイラ>
古代エジプトに関わることで、よく知られていると思われるのが、ミイラ。
古代エジプトにおける死に対しての考えは、現在のような悲しみや衝撃的なものとは異なり、お墓へに行くことは引越しのようなものでした。
人は死んでも、その人の魂は残り、いずれ肉体に戻ると考えられていたからです。
その為には、遺体を永久的に保存する必要性がありました。
そこで、永久保存のために使われたものがハーブ。
代表的なものは、薫香料や医薬品として使われていた芳香物質の『ミルラ(没薬)』です。
これは、紀元前25世紀から紀元前後迄作られていたミイラには欠かせないものでした。
当時、このミイラの製法は極秘とされ、僧侶などのある一部の人間のみが行う事が出来たようです。
このミイラは、遺体を保存するために心臓を除いた、ほとんどの内臓を取り出した後、防臭剤、防腐剤として、没薬を中心に、桂皮などの香料をつめられました。
その後、シダーウッドなどをしみ込ませた包帯で巻かれました。
このようにミルラが使われていた事が、ミイラの語源となったと考えられています。
また、ミイラに使うだけではなく、お墓のミイラが眠る部屋を香らせるために使われたとも言われています。
例えば、ミイラの中でも有名な、1922年に発掘されたツタンカーメン王(第18王朝、紀元前1350年頃)のお墓にあった壷には、約10%の割合で樹脂またはバルサムが含まれている軟膏が入っており、数千年を経た発掘時でも、芳香を放っていたそうです。
第3回 【古代ギリシアにおける香り】
<古代ギリシアにおける香料>
 古代ギリシア人は、香料の製造方法、特性、使用法などの知識や風習を、エジプト人から学んだと言われています。
 古代ギリシア人たちは、香料は神の持ち物であると考えていました。
初期のギリシア人の誌では、全ての女神が香りを感じさせる描写となっていることからも、香料は神の持ち物だと考えていたことが分ります。
たとえば、ホメロスは、ユノがヴィーナスと会うための準備をしているときの様子を、 次のように描写しています。
『ここでまず彼女は風呂に入った。
そして、体中に注ぐ香りある柔らかい香油と、神々しいシャワーをかぐわしい微風として送った。』
 ギリシアでは、このように、香料を神と結びつけていましたが、次第にエジプトと同様に、香料を売買するようになっていきました。
 紀元前594年には、香料に夢中になり過ぎたギリシアの人々の熱を冷ますために、香料禁止令が出されました。
しかし、その程度では、人々の香料に対しての熱を冷ます事は出来なかったのです。
この頃のアテネでは、数百と大変多くの香料職人が香料を売り、
その中でも有名なお店では、複数の種類の香料を売っていました。
この時代の香料は、花・葉・木・果実・ガム樹脂を用いて作られ、また、ほとんどがこれらを混ぜて作られていました。
古代ギリシアは、地中海の温暖な気候だったため、デリケートな匂いの花が多く育ち、 また、あまり汗をかかない気候だったため、体臭を隠すために強い香りをつける必要がありませんでした。
そのような土地だったために、古代ギリシアでは、エジプトとは違って、身近なクロッカスやヒヤシンスなどの花をメインとした香りが好んで使われていました。
 このような香料を、女性は身体の色々な部分に用い、使い分けていました。
例えば、頭にはマジョラム、顔にはパームオイル、腕にはミントなど・・・
その部位によって香りを使い分けるという、とても贅沢な使い方をしていたのでした。

<香料の研究>
 古代ギリシアは、香料についての研究が進んでた地域です。
アレキサンダー大王(紀元前356年〜紀元前323年)は、東方遠征で中央アジア、インドまでも支配し、広大な帝国を築きました。
この頃、ハーブやスパイスが多く流通することになったです。
香料が製造されて壷につめられていたり、インド産のバルサム、スパイス、スペインや黒海近辺からのオイル、アジアからのハーブやスパイスなどが、多く用いられたりもしていました。
アレキサンダー大王は、アリストテレスの弟子で哲学者・植物学者である、テオフラステス(紀元前372年頃〜紀元前287年頃)を保護したこともあります。
テオフラステスは、香料について詳しい記述を残しています。次がそのひとつです。
『香料は芳香物質の効力から、治療作用があると考えられる。
膏薬、ハップと称するものの効果は、それを証明する。
腫瘍と潰瘍を散らして、身体とその内側の諸部分に効果をもたらすからである。
腹部と胸部に膏薬を塗れば、息を芳しくする。』
 テオフラステスの書には、ローズ、リリー、サフラン、ベルガモット、ミント、マジョラムなどの名前も書かれていたり、他には、衣服を香らせるための製法の記述があります。
第4回 【古代ローマにおける香り】
<ギリシアの影響を受けていたローマ>
 古代ローマ人は、香料も含め、ギリシアの文化の影響を強く受けていました。
ローマ帝国時代には、特にそれが強く、香りの好みや習慣までも真似をしていたほどです。
例えば、ギリシアの女性が身体の部位によって、異なる香料をつけていたことを、ローマ人は取り入れていました。
 また、ギリシア同様、ローマでも多くの香料店があり、紀元前1世紀には、ギリシアのアテネの絶頂期と同じくらいの香料店があり、カプアという都市では、ひとつの通りにぎっしりと多くの香料店が並んでいました。

<日常生活での香料>
 初期の頃、オリーブオイルを入浴後の身体に塗っていましたが、後にフローラルな香料を混ぜたオイルを身体に塗るようになりました。
その後、ローマ帝国時代(紀元前27年〜)になると、香油、ポマード等が日常生活で多く使われるようになりました。

<香料の贅沢な使用>
 ローマ時代の中でも暴君として悪名高い皇帝ネロ(37年〜68年)は、香料狂ともいえるほどで、次のようなエピソードが残っています。
・宮殿のホールの天井を回転性にして、そこから花や香料が振りまかれるようにしました。
・シャワーのような管を持つものを作らせて、客に香油を振り掛けました。
・宴会の時には、香りで部屋が満たされるように、香油を振り掛けた鳥を放ちました。
・バラの花びらを撒き散らしたベットに眠り、その花びらが一枚でもよじれていると眠れなくなりました。
 この皇帝ネロの妻であるポッパエア(30年〜65年。二番目の妻。)も香料を贅沢に使ったと言われていて、肌を柔らかく、白く保つ為に、ロバのミルクに香料を加えたお風呂に入っていたそうです。
 古代エジプトのプトレマイオス朝最期の女王であるクレオパトラ(紀元前70年頃〜紀元前30年)も、香料を贅沢に、また、上手に使ったのでした。
・バラの香水風呂に入り、入浴後、身体中に香油を振り掛けました。
・クレオパトラは船を大量の香料で香り付けをしていて、宮殿から遠くにその船があっても、風に香りがのって、クレオパトラの船がもう少しで宮殿に戻ってくることが分ったそうです。
・古代ローマの政治家であるアントニウス(紀元前83年〜紀元前30年)と出会う時、船につけた香料の香りを川の両岸にまで漂わせて、香りによって存在を印象付けました。
その後、アントニウスを自分の部屋に招き入れる時には、床一杯にバラを散らして、その香りでより一層自分の魅力を際立たせました。
第5回 【古代・中世アジアにおける香料】
<中国>
 古代中国では、エジプトやギリシャ、ローマとは違って、ハーブや香料が日常生活で 大量に消費されるようなことは無く、また、香料についての具体的な製法、使用法、材料などについての記述も少ないのです。
 ハーブや香料などと思われる数少ない記述が、礼記(周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を戴聖が編纂したもの)や詩経(中国最古の詩篇)に残されています。
その中には、白ヨモギ、ヨモギ、椒聊(さんしょう)、蓍(のこりぎそう)、苓(甘草)、芍薬などがあり、布を織る材料や、食用、薬用になっていました。
また、古代中国人が最もよく使ったものは、ヨモギ、蘭などです。
それらで花束やサシェを作り、豊作の祈りを表して、式典や祭りに使ったり、結婚する人への贈り物として使っていました。
周の時代(紀元前1046年頃〜紀元前256年)になると、エジプト原産のシコウソウが中央アジアから伝わり、その後、ハス、蘭、ジャスミン、ヘンナなどの花が広まりました。
この時代の人達は、それらを衣服につけたり、髪に巻き込んだりして使っていました。
春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年)には、沈香、麝香、肉桂が上流貴族の間で化粧に使われていました。
このように、古代中国では一部の上流階級の人間が香料を使用し、ハーブや薬草などは一般的な生活においても使用されていたようです。
この後、3〜5世紀になると、インドからの仏教伝来と共に大量の香料が中国に入ってくるようになったのです。

<古代インド>
 インドは、エジプトと同様に、高温多湿で、また、香料の世界的な産地でした。
その為、一般的な生活でも色々なシーンにおいて香料が使われていました。
インドでは、パチュリー、白檀、ロータス、ベチバーなどから採った香料を使っていました。
 紀元前4世紀頃からは、ギリシアやローマとの交易で、インドからサフラン、コショウ、コスタス、
シナモンなどの香料が出荷されるようになりました。
 紀元前329年にアレキサンダー大王がインドの一部を征服した頃、彼は良い香りに包まれてよく眠れるために、没薬を採る木の枝と、香る草とでテントの屋根をふいたと言われています。

<日本>
 日本に香料が入ってきたのは、推古3年(595年)と言われています。
この年に、淡路島に一本の流木が漂着しました。島の人がその流木を火に入れたところ、
芳しい香りが立ち上ったので、その流木は都に運ばれて、推古天皇(554年〜628年)に献上されました。
その時の摂政だった聖徳太子(574年〜622年)が、沈香木であると言い当てたそうです。
これについては、日本書紀(720年)の推古天皇3年のところに次のように残されています。
 「夏、淡路島へ沈水(じんすい。沈香のこと。沈香は水に沈むためにこの名前がついています。)が流れ着いた。
その大きさは、一抱えもあった。島の人は沈水を知らなかった。
薪としてかまどの中でたくと、その煙が遠くまでよい匂いを運んだ。
これは不思議だと、この香木を宮廷へたてまつった。」
 ※ただ、一方では、香料が日本に入ってきた説として次のものもあります。
 仏教の史料によると、宣化3年(538年)、百済の聖明王が日本へ仏教と経文を送ってきました。
これが仏教が正式に伝わった年になっています。
香木も一緒にもたらされたとの記述はありませんが、仏教の礼拝の儀式で、香は必要不可欠なものとなりますから、同時に香も伝わったと考えられる・・・という説もあります。
 推古3年の説とこの説の何れが本当なのかは不明ですが・・・、一般的に知られている説としては、推古3年のものとなります。
 このようにして伝わった香りですが、後に仏教とともに祈りの香りとして広まっていき、平安時代以降、貴族達によって、空薫物(そらたきもの)、薫衣香(えびこう)として使われるようになりました。
 空薫物は、沈香木や白檀などをその家の特有の調合をして、部屋に炊き込めて、客を迎えたり、自分達がリラックスするために使いました。
この様子は、枕草子に「心ときめきするもの」として「よき薫物たきて、ひとり臥したる」と描かれています。
 薫衣香は、消臭剤、防虫・抗菌剤のような用途がありました。
人に会うときに、自分の体臭を隠すために衣装に香りを焚きこめたり、その香りの成分によって、防虫・抗菌がされて、衣装の長期保存がされたりしていました。
 このような香りは、その人物や家によっても独自のものを調合していたため、香りによって身分の高低や人物を判断することが出来ました。
これは例えば、源氏物語でも描かれているシーンがあります。
空蝉の段では、しのんできた源氏の薫衣香が風に流れ、空蝉はそれによって源氏だと知り、源氏に会わない様に自分の寝所を離れる・・・というシーンがそれです。
 また、貴族達は、季節の花などをテーマにして、色々な香木を調合し、その優劣を競い合う「薫物合わせ」という香りを使った遊びもしていました。
このようなことから、貴族の社会での香りは、知性や感性、身分などを表す役割を持ち、 定着していたことが分ります。
 しかし、平安時代に貴族社会で多用された香は、鎌倉時代以降、その用途などが急変しました。
それまでは、貴族によって薫物とされてきたものが、武士によって使われるようになったのです。
武士は、沈香木を焚いて、その少しの違いをかぎ当て楽しむようになっていきました。
その香りを聞く(聞香)ようになっていったのです。
 香木の価値が高まることによって、権力者たちは香木を得ようと競い合い、
中でも、室町時代の佐々木道誉(ささきどうよ)という大名は、大変多くの香木を収集していました。
室町幕府8代将軍足利義政は、東山山荘泉殿で、自身の所有物と佐々木道誉から引き継いだ香木とによって、香を楽しむ日々を送っていたと言われています。
 その後、多くの香木の種類を分類するために、三条西実隆や志野宗信等が、六国五味という香木分類法の概要をまとめました。
 香りに対して感性、精神的なものを求める聞香と、それによる香木の分類が成立などにより、「香道」が形成されていったのです。
香りにおける姿勢や扱いが他の地域とは異なっていたため、日本独自の文化が生まれたのでした。
第6回 【ローマ帝国時代以降における香り】
<東ローマ帝国>
 476年、西ローマ帝国がオドアケルに滅ぼされると、生き残ったローマ人達は、東ローマ帝国のコンスタンチノープルに逃れました。
この時、香料についての知識もローマ人達によって、東ローマ帝国にもたらされたことは、東ローマ帝国の経済に大きな影響を与えることになりました。この帝国の宮殿は、東洋の様々な香りが漂い、また港は香料の貿易の中心でした。

 その後、コンスタンチノープルは、アラビア人による支配下となり、同時に香りを扱うのもアラビア人へと替わりました。
アラビア人は、精油を取り出す方法として、蒸留法を発明しました。
植物の香りを長期間保存できることにより、香水が発明されました。
この蒸留法を発明したのは、アブ・アリ・アル=フセイン・イブラ・アラー・イブン・シーナ(アウィケンナ、980〜1036年)というアラビアの医師でした。
アウィケンナは、58年も遍歴生活を送った際に、約100冊もの書物を書き残しています。

彼は蒸留法の最初の実験に、アラビア人が最も好んでいたローズを選びます。
これにより、ローズ水を抽出がされました。

 それ以前は、匂いはワインのベースか油性の混合物に混ぜて作られていたので、古代の女性が身体にまとっていた香りは、現代の香水をつけている女性とは異なり、スパイスの匂いがとても強く、酸敗臭がしたと考えられます。

<12世紀以降>
・アウィケンナの蒸留法の発見によるローズ水は、十字軍の頃になると、他の香料とともにヨーロッパに伝わりました。
12世紀末には、ヨーロッパでも香料を作る業者があらわれ、独自の製品を供給していました。
1190年には、フランスの製造業者がフランス国王フィリップ2世(1165〜1223年)から特権を与えられるほどになっていました。

・ローマ時代以降、ヨーロッパでの最初の香水の発明は、ラベンダー水と言われています。
ベネディクト派の尼僧である聖ヒルデガルドが12世紀に発明したと言われています。
このラベンダー水は、早くからイギリスで作られていましたが、なかでもラベンダーの栽培では、サリー州ミッチャムが有名でした。
ラベンダー水は、イギリスだけではなく、フランスやドイツでも作られていて、フランスでは、シャルル5世が1370年頃にルーブル宮殿の敷地内に
ラベンダーを植え、自分用のラベンダー水のための原料を確保していました。
その後、息子のシャルル6世は、父親と同じくラベンダーを好み、宮廷にラベンダーのカゴをつり、その香りを漂わせ楽しんでいたそうです。

・1370年頃、フランスでシャルル5世がルーブルにラベンダーを植えさせていた頃のハンガリーでは、若返りのハーブとして有名なローズマリーから蒸留されたハンガリー水が現れました。
これはヨーロッパの貴婦人の間で化粧水として使用されていました。
このハンガリー水を最初に作ったとされているのは、ハンガリーのエリザベス女王です。

伝説では、尼僧が女王にその製法を教え、女王はハンガリー水を使用することにより、若さと美しさを取り戻し、70歳になっても男性を魅了し、数多くの取り巻きがいたと言われています。
更に、72歳の時には、隣国ポーランドの20代の王子から求婚されたとも言われています。

<16世紀〜17世紀>
・香水産業でヨーロッパ諸国の中でも先を行っていたイタリアからエリザベス女王の頃の16世紀に、イギリスへ、香水を贅沢に使用する習慣が伝わりました。
エリザベス女王は、香水に莫大なお金を使っていました。女王の調香師のひとりであるラルフ・ラバーツは、女王に「最も甘く繊細な香り」の香水をつくりたいと手紙を出し、バイオレットとナデシコの香水をすすめました。
エリザベス女王は、これらの香水を好んで使用していましたが、様々な香水の中でも特に次の2つの香水を好んで使用していたと言われています。
ひとつは、ムスクとローズからできたもの、もうひとつは、コンパウンド水(原料等は不明)とスウィートマジョラムと安息香から出来たものでした。

・1533年、カトリーヌ・ド・メディチがフローレンスからフランスに行き、後のアンリ2世と結婚しましたが、カトリーヌ・ド・メディチは、当時、香水産業が発達していたイタリアから2人の調香師を連れてきました。
カトリーヌが宮廷で使用する香料や化粧品を作るコジモ・ルギエリ、パリにイタリアの香料専門店を開いたルネの2人です。
また、カトリーヌは、宮廷の避寒地だったプロヴァンス地方のグラースが花の生育に適していることを知り、香水工場を作りました。
皮革業で知られていたグラースでは、皮革の匂い消しの為に香料を使用していたため、この香水工場が作られたことは歓迎されました。
このようにして始まった香料工業は、フランスの香水産業の基礎が作られ、17世紀には大変栄えました。

・当時、身体を洗うという習慣がほぼ無かった為、その身体の悪臭を隠すために、香りを身につけていました。
悪臭を隠すほどの香りですから、とても強力で、現在の香水とは全く異なった香りでした。
例えば、1580年にフランスで出版された化粧品に関する一般向けの本には、女性を永遠に美しくする化粧品が載っていましたが、その処方は、次のような記載の通り、とても強烈な匂いがするものでした。
「幼いワタリガラスを巣から取り出し、4日間半ゆで卵を飼育し、殺してギンバイカの葉、タルク粉、アーモンド油と共に蒸留する」
このような処方は、他の強烈な匂いのする製品と同様、18世紀頃まで用いられました。
第7回 【近代〜現代の香り】
<18世紀ヨーロッパ>
・下水設備が整っておらず、入浴の習慣も一般的でなかったため、17世紀に引き続き、18世紀の人々も体臭を隠すために好んで香りを持ちいました。
中でも香り好きで有名だったのは、フランス革命の悲劇の女王マリー・アントワネットと英雄ナポレオン。
ムスクやアンバーなど動物性の香りが一般的だった当時、マリー・アントワネットが好んだのはバラやスミレなどの女性的な香りで、特注のフローラル系の香水をつけていたため、どこにいてもその所在が分かってしまったそうです。
ナポレオンが好んだのは、柑橘系の軽めのもの。
一方、妻ジョセフィーヌはローズや麝香の香りが好きで、夫とは好みが合わず、不和の原因にもなったと言われています。
・ドイツのケルンでオーデコロンが製品化されたのも、この頃。
もともとはケルン水と呼ばれており、ウオッカにベルガモット、ネロリ、ラベンダー、ローズマリーの精油を加えたものだったようです。
ナポレオンも愛用者で、ドイツに進軍した多くのフランス兵が妻や恋人への土産として買い求めました。
同時期、イギリスでは香水風呂がはやり、フランスでは香水専門店が開店。
香りの化粧品としての役割と、医薬品としての役割が分化してきたのだと思われますが、この頃はまだ香りに治療効果も求められており、オーデコロンは疲労や病気から回復するためにも使われました。
・イギリスでは口臭予防のため、オレンジの皮、シナモン、クローブ、イバラの葉などが売られていました。

<19世紀>
・急速な科学技術の進歩により、植物の有効成分だけを抽出することができるようになったため、化学薬品の合成が可能になりました。
それに従って、香りの医学的効用は徐々に軽んじられるようになりました。
また、クマリンをはじめとする合成香料も次々に開発され、香水は大量生産可能なものとなり、庶民にも広がってゆきました。
・パリやロンドンには王室御用達の香水商も現れました。
パリで発行されていたモード新聞(現在のファッション雑誌のようなもの)「シルフィード」の表紙には、毎号違った香水で香りがつけられていました。
その調合を手がけたのは、「ミツコ」や「夜間飛行」でおなじみのゲランの創始者でした。
・賢い主婦になるためのマニュアル本としてイギリスで広く読まれていたカッセルの「家政の手引」には、ポプリの作り方も掲載されていました。
石灰と三倍量の砂糖を混ぜてペースト状にしたものに、新鮮なラベンダーを混ぜるモイストタイプのポプリが紹介されています。
花びらを乾かしたドライタイプのものは布袋に入れて、虫よけに箪笥に入れたり、ハーブピローとして枕に入れられたりしていました。
円形の小さな容器に詰めたポプリを、当時の女性の大きく広がったスカートの下に吊るしたりもしました。
・イギリスの作家ギャスケル夫人の作品にはハーブを用いた印象的なシーンが出てきます。
「サイラス・マーナー」ではラベンダーやローズの香りのする衣装箱が、「クランフォード」では病室の芳香剤としてのポマンダー(オレンジやリンゴにクローブを刺したもの)や、ラベンダーの茂みの上に洗濯ものを広げるシーンなどが出てきます。
化学薬品の台頭で、ハーブの医薬品としての役目が徐々に忘れ去られつつある時代でしたが、生活の知恵や慎ましやかな女性の嗜みとして、ハーブは日常生活に深く根付いていたのでしょう。

<20世紀>
・医学の進歩とともに副作用などの弊害も生まれ、反動として薬草治療に再び目が向けられるようになり、その効果や作用が科学的にも実証されました。
・フランスの香水会社の研究者だったルネ・モーリス・ガットフォセが実験中に指にやけどを負った際、ラベンダーの精油の中にとっさに指を入れたところ、やけどが驚くべき速さで治ってしまいました。
このことから、精油の研究を始めたガットフォセは1930年代に「アロマテラピー」という言葉を作り、同名の本も執筆しました。
・ガットフォセの研究に注目したフランスの軍医ジャン・バルネ博士は、インドシナ戦争時、兵士の傷を縫合するとき精油を用いました。
戦後も研究を重ねた博士は現代メディカルアロマテラピーの礎を築いたと言ってもいいでしょう。
・オーストラリアでは、原住民が感染症を起こした創傷を治すのに使っていたティートリーの薬効に注目が集まり、第二次世界大戦中には熱帯地方の軍隊などで、皮膚の創傷の手当てに用いられました。
・60年代に活躍したオーストリア人のマルグリット・モーリー女史はバルネ博士の弟子の一人で、皮膚から浸透させた精油の美容効果に着目しました。
イギリスに渡って、精油を用いたマッサージを伝え、後には英国式アロマセラピーの母と呼ばれました。
・70年代にはイタリアの植物学者パオロ・ロべスティがベルガモットやオレンジなどの精油を精神治療剤として臨床的に用いました。
・77年に発行されたイギリス人ロバート・ティスランドの「アート・オブ・アロマセラピー」は日本におけるアロマセラピーの普及にも大きな貢献を果たしました。
(日本で翻訳されたのは1985年)
医療寄りのフランス式アロマテラピーと、美容寄りのイギリス式アロマセラピー(フランス語であるアロマテラピーを英語読みすると、テラピーがセラピーになります)
が、現代アロマセラピーの二大潮流であると言えますが、日本ではイギリス式が主流となっています。

<21世紀・・・>
ホリスティック医学(人間を体、心、霊性などが合わさった有機的存在としてとらえる医学)が全盛となり、西洋のアロマセラピーのみならず、インドのアーユルヴェーダなど、芳香植物を利用したさまざまなセラピーがたいへん身近な存在となりました。
ハーブティーもテレビや雑誌などでその効能が取り上げられるようになり、今や日本でも老若男女を問わず愛飲されているのは皆さまもご存じのとおりです。